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VICアカデミー「芸能人生の歩み -新人朝ドラ女優が、女優・藤吉久美子になるまで-」

2026年 04月 03日

VICアカデミーとは、弊社理念にある「学習と成長」の実践の1つとして開催しているVIC社員及び関係者のための
勉強会です。

「芸能人生の歩み -新人朝ドラ女優が、女優・藤吉久美子になるまで-」
講演者:女優・藤吉久美子 氏
実施日:2026年2月27日(金)

【講演者プロフィール】
1961年生まれ、福岡県出身。大阪芸術大学在学中に、NHK連続テレビ小説の出演者オーディションで、ヒロインに選ばれる。1982年放送の連続テレビ小説『よーいドン』では、オリンピックを夢見た主人公・みおの波乱万丈の人生を見事に演じた。その後もホームドラマからサスペンス、時代劇まで幅広く活躍。

【主な出演歴】
(TVドラマ)
連続TV小説 「よーいドン」「ちりとてちん」「まれ」  大河ドラマ「毛利元就」「軍師官兵衛」
「大奥」「温泉へ行こう」シリーズ「土曜ワイド劇場」「水戸黄門」「100の資格をもつ女11」 「相棒」
「田園ボーイズ」「ブスの瞳に恋してる」等

(映画)
「津軽百年食堂」「お終活熟春!人生百年時代の過ごし方」「太陽とボレロ」等

(バラエティ)
「はなまるマーケット」「情報ライブ ミヤネ屋」等

(舞台)
トム・プロジェクト「五十億の中でただ一人」「かへり花」
あやめ十八番「金鶏 一番花」
劇団桟敷童子「蝉追い」「空ヲ喰ラウ」「老いた蛙は海を目指す」
博多座「めんたいぴりり」等


■生い立ち
 福岡県久留米市大善寺町という、辺り一面に田んぼが広がるのどかな場所で、産婦人科医院の娘として生まれた。父は日本における「無痛分娩」の先駆けとなった医師であったが、その情熱は凄まじく、私の三つ下の妹を日本での無痛分娩「第1号」の実験台として誕生させたほどである。父は医療の最先端を走る一方で、家庭内では非常に「お山の大将」然とした、いかにも九州男児らしい厳格な人間であった。当時の私は今の姿からは想像もつかないほど内気な子供だったので、父の絶対的な威厳に気圧され、自分の意見を口にすることすらなかった。

■母との別れ
 12歳の時、人生を分かつ大きな別れが訪れた。母の強い希望で、私は「福岡女学院」という箱入り娘が通うような学校を中学受験することになった。受験当日、母は二ヶ月前からこじらせていた風邪でひどく体調を崩していたが、無理を押して私を試験会場まで連れて行ってくれた。会場の暖房が壊れて凍えるような寒さの中、母は文句一つ言わず私を待ち続けてくれたが、無事に試験を終えたその日から母は寝込み、一週間後に36歳の若さで急逝した。
 葬儀の日に、母の茶碗を割る儀式を行い、「もうお母さんは帰ってこない」と突きつけられた衝撃は今も覚えている。同日届いた合格通知を手に取った父に「お母さんも死んでしまったから、もう学校へは行かなくていい」と言われた時、私は初めて自分の意志で「お母さんが命がけで連れて行ってくれた学校だから、私は必ず行く」と宣言した。

■ダンスとの出会いと「個」の目覚め
 中学生から始まった寄宿舎生活は寂しさを伴うものだったが、半年後にやってきた継母との出会いが私の価値観を大きく変えた。長崎の進学校で国語教師を務めていた彼女は、九州男児の典型である父に対しても「一人ひとりには個々の感情があり、それぞれの価値がある」と毅然と言い切る人だった。
 その頃、私は当時大流行していたピンク・レディーに憧れ、ジャズダンスを始めた。これが性格を劇的に変える転機となる。スクールの発表会で、周囲を気にしてキョロキョロと人の動きを見ながら踊っていた私に対し、先生は「舞台の上ではあなたは一人なのよ」と厳しく突き放した。その言葉が胸に深く突き刺さり、「自分の足で立ち、自分を表現しなければならない」という強烈な自覚が芽生えた。それ以来、私は家庭でも素直な気持ちを少しずつ口にできるようになった。ダンスは単なる習い事を超え、私に「個」としての誇りを教えてくれた。

■大阪芸術大学時代と「劇団☆新感線」との出会い
 大学進学に際して、ダンスを続けたいという一心で大阪芸術大学を目指したが、父は猛反対した。話し合いすらままならない父に対し、私は母のアドバイスで10枚の原稿用紙に想いを綴った手紙を渡した。それが功を奏し、ようやく進学を許された。
 大学では、後に演出家として名を馳せるいのうえひでのり氏が率いる「劇団☆新感線」の草創期に関わり、振り付けを手伝うことになった。次の公演では、役者として出演を依頼されたが、私はあくまでダンサー志望であり、俳優の出演依頼は断ったのだが、井上氏から「君が出ないならこの上演はやめる」とまで言われ、その重い責任感から舞台に立つことを決意した。その公演にたまたまNHKのプロデューサーが来場し、朝ドラのオーディションを勧められた。演技経験もほぼ無かった私は、この誘いを一度は断ったが、いのうえ氏から「僕が後悔するから、僕のために受けてくれ」と強く勧められたことがきっかけで、オーディションを受けることになった。

■朝ドラ『よーいドン』 でヒロインに抜擢
 「98%無理だ」と言われながら受けたオーディションだったが、プロフィールが間に合わなかった私は、審査員の前で10分間にわたり自分の生い立ちを語り続けた。自分のルーツを、大人たちがこれほど真剣に聞いてくれたのは初めての経験だった。
 二次試験は、大阪城の周りをランニングするというものだったが、参加者の中で陸上経験者は私だけだった。この時は知る由もなかったが、実は募集しているヒロインの役は、陸上でオリンピックを目指す少女だったのだ。
 最終試験のカメラテストでは、従兄の戦死報告を読みながら涙するという台本を渡された。演じている最中、ふと本当の兄の姿が重なり、涙が溢れて台本の文字が全く見えなくなるほど感情が昂ぶった。その姿を見たプロデューサーが、衝撃のあまり手元の資料を床に落としたというエピソードは後で聞かされた。
 568人の応募者の中からヒロインに選ばれた際、私は「自分を選んでくれた人たちの期待を裏切れない」という重い責任を感じた。今なお私が謙虚な気持ちでいられるのは、あの時、自分の後ろにいた567人の演劇人たちの想いを背負って歩み始めたという自覚があるからだ。

■太川陽介との出会いと結婚
 夫・太川陽介との出会いはドラマの共演だったが、挨拶の行き違いから彼を怒らせてしまい、最初の印象は最悪だった。しかし、ある時撮影の帰路に新幹線で隣り合わせになり、意気投合し、いくら話しても飽き足りなかった。その夜に彼が連れて行ってくれた店で、彼よりたくさん食べた私の飾らない姿が、彼に「この人こそ結婚相手だ」と確信させたという。

■40歳の出産と仕事の両立
 39歳で待望の妊娠が判明したが、その時は過酷な昼帯ドラマ『温泉へ行こう』の撮影真っ只中だった。高齢出産の不安を抱える私に、プロデューサーは「僕が嫌われ役になって現場を守るから」と宣言し、私が冷たい風呂に落ちるような激しいシーンを急遽変更してくれた。そのお蔭もあり、無事に出産し、生後二ヶ月でお宮参りと40歳の誕生日を同時に迎え、すぐに現場に復帰した。そこからは女優と母親の壮絶な両立の日々だったが、夫や撮影スタッフたちの協力もあり、完走することができた。

■表現者としての現在と、未来への展望
 還暦を過ぎた今、表現者としての私の世界はさらに広がりを見せている。映画『太陽とボレロ』では、コロナ禍のZoom練習を経てフルート演奏に挑戦し、最新作の映画『お終活 再春!』では長年の趣味である合唱の経験を活かすことができた。
 近年は舞台でも活躍しており、激しい台詞のある悪役を演じたり、自分の殻を破る試みを続けている。
 私がこのような面白い人生を歩むことになったのも、振り返ってみれば、幼い頃の母との別れが大きく影響していると思う。亡くなった母が、いつも導いてくれていると感じている。
 これからも一つひとつの出会いに感謝し、目の前の坂を一段ずつ丁寧に、力強く歩んでいきたいと考えている。