バリューイノベーションは社員教育でお悩みの中堅・中小企業様の社員研修・社員育成をお手伝いする企業研修の会社です。

新着情報

VICアカデミーを開催しました

2022年 07月 04日

VICアカデミーとは、弊社理念にある「学習と成長」の実践の1つとして開催しているVIC社員及び関係者のための
勉強会です。

今回は吉兆の創業者、湯木貞一様の想いを引き継ぎ現在は日本料理湯木の店主としてご活躍されている
湯木尚二様をお招きして、「船場吉兆の廃業と自己破産から日本料理湯木の開業と現在」についてお話いただきました。

湯木尚二(ゆき・しょうじ)
1969年大阪府生まれ
高校1年生の頃から実家である船場吉兆本店でアルバイトを始め、大学卒業後入社
1995年 船場吉兆心斎橋店オープンに伴い店長に就任
1999年 福岡に新店舗を進出させる
2007年 食品偽装問題が露呈し、翌年5月に船場吉兆廃業
2010年 「ゆきや」を開業
2011年 大阪・北新地に「日本料理 湯木」を開業
2019年 大丸心斎橋店に出店。現在、大阪で4店舗を経営

■祖父・湯木貞一と吉兆
 明治34年1901年に料理屋を営む両親の間に一人息子として誕生した。成績は優秀で、将来は進学したかったが「商売人の子供に学問はいらない」という親の方向性もあり、15歳から両親の営む料理屋に弟子として入門した。
ある日、学校帰りに談笑しながら歩いてくる同級生に遭遇し、自分の身なりが恥ずかしく路地裏のごみ箱に隠れて友人が通り過ぎるのを涙して待った。両親に「そんなに学校へ行きたいならもう一回学校へ行き直すか?」と言われたが、「自分は宿命、運命で料理の道に進んだ限りは、将来この友人と肩を並べて話ができるような立派な料理人になってみせる」と言い切り、親元で15年間料理修行に励んだ。30歳で結婚を機に独立し、大阪の南の花街、新町で商売を始めた。父親の友人に「商売繁盛の神様、戎さんに商売人はこぞって求めに行く吉兆笹がある。これを屋号にしたら縁起がいいぞ」といわれ、新町で小さいカウンター7席の「吉兆」が誕生した。
ある日、着物を着た寡黙な男性が店に訪れた。タイ茶漬けを注文されて帰った。数日たって、ミカン箱が届き、その中に紙に包まれた食器が入っており、手紙には「あなたの料理に将来性を感じた」とメッセージが入っていた。その方の名前は北大路魯山人だった。

■私・湯木尚二
 私は、創業者湯木貞一の三女の夫婦のもとに生まれた次男で、7つ上の兄と家政婦のもとで大切に育てられたが、7歳のころ家政婦が病気で倒れ、生活は180度変わった。料亭の中で生活をすることになり、夕飯を食べるのはお店が終わる22時ころだった。学校から帰って一人で過ごし、お店の裏の空き地で一人でキャッチボールをしたり出番前の芸者さんに花札を教えてもらう日々が続いた。
高校生の時に友人がアルバイトをし始め、私も何かしたいと親に伝えたら、「猫の手も借りたいくらいなのだから手伝ってくれ」といわれ、最初に玄関の清掃、お客様のお出迎えから始めた。黒塗りの車ばかりで見分けがつかないが、どの席の方がどの車なのかを覚えなければならないため大変だった。2年目からは食器洗いを行った。多いときで500枚ほどの食器を洗わなければならないが、食器を重ねて置くと怒られた。必ず2度拭きをするよう言われ、器に対しても愛情を持つ心を教わった。3年半過ぎから、ようやく厨房に立たせてもらえた。その頃から、私もこの道で生きていこうと意識をした。
父におじいさんが元気なうちに、話を色々聞いてこいと言われ、週に2回祖父のマッサージに出向いていた。22時ころ祖父の寝床へ行き、足をマッサージする。お小遣いもくれた。ある日、そのお小遣い目当てでマッサージをしに行き、そのまま遊びに行こうと祖父の寝床へ向かったら、珍しく祖父が背広のまま物書きをしていた。次の日に突然入ったお客様の献立に頭を悩ませていたのだ。「おじいさん、早くマッサージしましょう。疲れてるでしょう?」と声を掛けたら、「お前はそれでも料理屋の息子か」と叱られた。「日本料理の真髄は味だけではない。もてなしの心や。今頃お客さんは明日どんな料理を楽しめるのかと期待をしてはる。その期待に最高のおもてなしで答えるのが料理屋のやりがいや」と説教を受けた。これを機に跡継ぎとしての決意が固まった。
祖父の提唱していた、もてなしの精神は2つ。1つ目は一期一会。おもてなしを通してお客様と共有する時を、どれだけ本気で大切に愛おしみながら過ごせるか。2つ目は一客一亭、亭主はオンリーワンのもてなしをする。季節感や詫び寂びに対しても意識をすることだった。

■船場吉兆の廃業
 福岡の百貨店で、黒豆プリンの賞味期限切れの不祥事を起こし、業績が悪化した。2007年12月10日、民事再生を農林水産省に報告書を提示した後に記者会見に臨んだが、当日兄は頭が真っ白になってしまった。母は記憶力がよく、前日の弁護士との問答を記憶しており、助け舟を出したのがマイクに拾われ、これが「ささやき会見」となった。不正の話よりも船場吉兆のおかみにメディアが集中した。
2008年1月に民事再生が認められ、船場吉兆の再開をすることができたが、その4か月後の5月に食べ残し再利用というニュースが一面に出た。実際には食べ残しではなく、手付かずのもので、一度お出ししたが、苦手な食材がある方の料理をおさげし、その食材を使用していた。言い訳になるが、もったいない精神からくるものだった。
この使い回しのことが報道で多く取り上げられ、船場吉兆は46年間の歴史に幕をとじた。廃業して一番初めに行ったことは祖父の墓参りだった。我々の不始末でこのような形になったことを心から謝った。特に母は泣き崩れて御前に手を合わせていた。すべてを失ったが、一番失ってつらかったのは信用であった。住んでいた家を引き払い、1ルームの家を借りることすら大変だった。生まれて初めて仕事の求人誌を買い、近くの飲食店で採用になった時は非常に嬉しかったが、そのバイト先も新聞記者の方が来て、気まずくなりやめることになった。

■日本料理湯木の開業
 失業しているときにたくさんの本を読んだ。その中でも、ダイエー創業者の中内功さんの本に勇気づけられた。この本に出会い、飲食店専門のコンサルティング会社を立ち上げ、「オフィスプラス思考」と名付け起業をした。昔ご迷惑をかけた皆さんにお詫びを兼ねてあいさつ回りをした。ある時、グルメ杵屋の創業者の方から電話をもらい、「時間あるなら、うちのうどんを見てくれないか」といわれ、月に1度の会議と、店舗調査、商品開発に携わった。このご恩は今でも忘れられない。
2010年、秋にご縁があり、大阪難波に「ゆきや」という名前で6坪の小料理屋を始めた。船場吉兆時代にごひいきにしてくださったご夫婦が来てくださり、涙が出るほどうれしかった。
コンサルタント時代に貯めた資金で、食器も買い集めた。吉兆時代からご縁があるお店に行き、「よう来てくれた。この日が来ると思っていたで」と言われ驚いた。吉兆が倒産したときにすべての食器はオークションにかけられたが、その食器をいくつか買い戻してくれていた。「この食器にはあんたの料理が一番映えるんだ」といってくれて、もどし値で私に売ってくれた。もう二度と迷惑をかけれないと心に誓った。
2店目を新地で出店することになった。家賃は高いが不思議な自信があった。屋号はどうしようか悩んでいた時に、偶然にも9歳の時に祖父からもらった吉兆料理の集大成の写真集を手に取った。その本に祖父がサインを残してくれていたのである。それに感動し、「湯木」という字の書体をデータ化して、看板やユニフォームに使用している。祖父からの導きだったと感じる。
北新地で2店舗出店し、店も忙しくなった。2017年に大丸松坂屋百貨店から電話があり「2019年に心斎橋大丸を全面改装するので、そこにレストランとして入って欲しい」といわれた。2007年の不祥事は百貨店で起こったにもかかわらず、その経営者の当事者であった私に声をかけてくれたのである。人生の師匠、千房の創業者である中井会長に相談をした。
「こんなありがたい話はない。やらない理由はないやないか」と背中を押してもらい、2019年秋に出店することになった。

 こうして廃業し転落してから何とかお店を出して商売ができるようになったことに感謝をしている。最後に大切にしている6つの力と5つの徹底を紹介する。

■6つの力
気力→なんでも前向きに立ちあがる
智力→気力を伴う智力ある行動
努力→物事はなんでも積み上げ、継続して結果を出すことが重要
体力→健康であることが大切
協力→一人でできないことも、各々のたけた力を結集すればより良いものができる
魅力→料理や接客が素晴らしくても一番大切なものは人柄

■5つの徹底
笑顔徹底福が来る
挨拶徹底人が来る
掃除徹底仕事が来る
仕事徹底お客様が来る
サービス徹底お客様が付く

最後になるが、祖父の教えもあり、私は1つ1つの料理に魂を込めて提供している。
不思議とこれはお客様に伝わるものである。魂を注ぐことでお客様との心のキャッチボールが続くものだと思う。