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VICアカデミーを開催しました
2022年 11月 10日
VICアカデミーとは、弊社理念にある「学習と成長」の実践の1つとして開催しているVIC社員及び関係者のための
勉強会です。
「TVエンタメ業界からチャレンジドフェスティバルの挑戦」
講演者:齋藤 匠氏 特定非営利活動法人チャレンジド・フェスティバル理事長
吉澤 良美氏 NPO法人いちかわ市民文化ネットワーク事務局
齋藤匠 (さいとう たくみ)
1963年 5月24日茨城県日立市生まれ
1978年 茨城県立日立第一高等学校入学→在学中に役者を志す
1982年 日本大学芸術学部演劇学科演技コースに入学→2年後に中退
劇団加藤健一事務所に入団→夢破れて退団
レーザー光線会社に就職、イベント映像や企業VP制作に従事
三菱商事株式会社に出向
第一企画株式会社(広告代理店)に出向
株式会社ザ・ワークスとプロデュサー契約
2001年 38歳の時に有限会社アクロを設立
NPO法人いちかわ市民文化ネットワーク監事
※2009年いちかわチャレンジド・ミュージカル(知的障害者・児ミュージカル)初出演
市川市PTA連絡協議会会長(2008年6月‐2011年5月)
千葉県PTA連絡協議会会長(2013年6月‐2015年5月)
2013年 任意団体チャレンジド・フェスティバル立ち上げ
2015年 特定非営利活動法人チャレンジド・フェスティバル設立
吉澤良美(よしざわ よしみ)
「障害を持つ子の親として生きる」
NPO法人いちかわ市民文化ネットワーク 事務局
アラフォーアイドル輝けプロジェクト!(通称:フォティプロ)で現在、「saso・リーザ」として活動中!!
■エンタメ業界序章
小中学校の頃から、児童会長や、生徒会長を積極的にやっていた。高校では、俳優を志し東京の養成所に通い、大学では役者を目指していた。
一番初めの就職先はレーザー光線の会社で、博覧会周りとディスコ、キャバレーなどで仕事をしていた。25歳で本当の自分とは何かを探し始める。そのあと三菱商事へ出向となり、社内の新商品のセールスプロモーションのビデオ制作やイベント制作などを担当した。続いて、広告業界に出向をし、イベント映像やCM制作のアシスタントをやったが、第一企画と契約をし、フリープロデューサーとしてデビューした。
28歳で結婚したが、自分が見つかっていない状態だった。その間は、何か流れが来たら乗ろうと決めていた時期で、流れに乗り、31歳の時に日本テレビの「ウリナリ」のプロデューサーになる。ここで、チャレンジ精神は自分だけではなく、人をも感動させられるということを学んだ。この学びが、後々のチャレンジド・フェスティバルの活動につながってくる。
38歳の時に有限会社アクロを創業する。その後は、仕事をしながら、43歳の時に子供が通う学校のPTA会長になり、子供よりも親が学校へ行きたくなるようなPTA活動を目指して試行錯誤した。一生懸命やっていたら、あの学校のPTA会長は面白そうだと話題になり、2年後には市川市のPTA会長から千葉県のPTA会長になった。
その延長で、市川市を中心とした知的障害の子供たちのミュージカルに出演することになり、私の人生が大きく変わる。障害児の存在、能力、親の想い、すべてにノックアウトされた。
■タクちゃんダンサーズ結成
最初の頃は知的障害を持った子供たちが、こんなにも明るく、元気に生きているということを伝えたかった。保護者からは、「子供が生まれたときに知的障害をもって生まれたとわかった時はつらかったし、旦那に責められたりもしながら、色々乗り越えてきた。だから今は一緒になって楽しくミュージカルに参加している」話を聞いた。けれど、保護者の共通の想いは、「親は先に死ぬ。わが子が残った後、幸せに生きられるのか」という深い悩みなのだと知り、居ても立ってもいられなくなった。
同時に、日本全体の教育界をよくしないといけないと真剣に考えていた時期でもあり、いじめや自殺、リーマンショック、東日本大震災が起き、日本の未来はどうなるのだろうという不安がある中で、PTA理事会などで話し合いばかりをするのではなく、子供たちの未来をよくするのは、まずは我々大人が行動しなければならない。日本をもっとよくしたいという思いが強くなった。
■イベントを始めたきっかけ
2013年頃、心のバリアフリーという言葉が少し出始めていたが、異なる障害者同士に大きなバリアがあると感じた。知的障害者施設を回っていくと、職員に「あなたたちは軽度の障害でいいわね。」と言われ、同じ障害でも、重度、軽度で壁を作っていると思った。
復興支援のイベントにタクちゃんダンサーズが行くと、知的、視覚、聴覚障害、車いすの方がたくさんいた。世間や社会は障害に対してすごく壁を作るから、つらい思いしている。と主張していた。けれども、障害がある人が少ない中で、障害者がバラバラになっていたら、いつまでたっても一つになるわけがないと感じた。まずは障害者が一つになるイベントをやろうと思って始めたのがこのイベント。
■現在のテーマとメッセージ
「うれしい!たのしい!大好き!」が、人間の幸せの原点で、「思いやりとチャレンジ」が大切。1000年後の未来をデザインしましょう。究極の利他を追究し、未来のすべての地球生物が幸せに生きるために、私たちが今やるべきことを考えよう。共に歩こう、共に生きよう。できることからやりましょう。
■チャレンジド・フェスティバルの主な活動
・2013年 第1回チャレンジド・フェスティバル「障害ごとの壁を越えた先の心のバリアフリー」
・2014年 第2回チャレンジド・フェスティバル「エンタメこそが心のバリアフリーを推進する」
・2015年 第3回チャレンジド・フェスティバル「イマジン 想像してごらん、地球が一つだと」
・2016年 チャレフェス音楽祭「音楽の力」音楽はすべての人をハッピーにする
・2017年 チャレフェス演劇祭「ミュージカルの力」音楽とダンスはエンタメ原点
・2018年 チャレフェス文化祭 エンタメの力で自己表現から自己覚醒??エンタメの力で共生社会を創る
・2019年 チャレフェス文化祭「みんなが太陽」まずは自分が一番光り輝く太陽に
・2020年 VR映画「七つの光」「千年後の地球の未来」世界平和と地球環境保護
※紫吹淳さん出演
・2021・2022年 YOUTUBE番組&ミュージカル劇団「 エンタメ×障害福祉の力」世界へメッセージの発信
・これから 舞台&VR映画「七つの光」による世界発信
映画「グレイテスト・ショーマン」のリアル版劇団で、様々な障害者と健常者が一緒になって作る劇団
※狂言師・野村萬先生が代表を務める日本伝統芸能各種講演を企画制作する NPO法人ACT.JT参画
■吉澤良美氏 「子供の誕生から今日まで」
結婚して、34歳で息子を出産した。妊娠中のドクターからの指導は体重管理くらいで、経過は良好であった。出産のイメージとしては、「うぎゃー!」と泣いて元気に出てくると思っていたが、息子は泣かなかった。意識が朦朧とする中、先生たちがバタバタしていたが、お産の痛みが強く、その場で意識を失ってしまった。意識が戻ってから聞いた話だが、息子と私は別々の都内の病院に緊急搬送された。私の病院には夫が、息子の病院には私の母が付き添ってくれた。看護師たちは「赤ちゃんも頑張っているから、お母さんも頑張って!」と励ましてくれたが、痛みを我慢しながらも、「出産は終わったのに、これ以上私は何を頑張るんだろう」という心境だった。私の母は、病院から「お子さんはもうだめかもしれない」と言われた。頭蓋骨の陥没骨折と網膜外血種と診断され、酸素を正常に体内に入れられるような状態ではなかった。一方、私も、出血多量で、ショック状態。二人とも危険な状態だった。
5日後に息子の病院に転院することができたが、私も歩ける状態ではなかったため、車いすで初めて息子と対面した。NICUの奥で、保育器の周りに機材と管だらけの赤ちゃんが私の息子だった。看護師から、「治療している最中に手足を動かし始めたから、息を吹き返して山は越えています」と言われた。息子は2か月間入院したが、私は10日後には退院できた。その日から看護師が提案してくれて、交換ノートを始めた。私が入院している最中から、ノートを書いてくれていた。交換ノートの内容としては、「お風呂入れたよ・髪の毛そったよ」などだが、私が退院した後は、私が自宅に持ってかえり、家のことを書いたりした。次に返ってくる交換ノートには、たくさんの息子の写真を貼ってくれていて、今ではすごく大事なものとなっている。
息子が退院するときに、「成人になるまで何が起こるかわからない。障害が残るかもしれません」と告げられた。その時は障害ということよりも、この子は長く生きられないのではないかという思いの方が強く怖かった。生後8か月の時にてんかんの病気になったが、即検査入院ができ、完治するはずがないてんかんを奇跡的に完治することができた。1歳になると保健所から健診の案内がきた。もちろん、しゃべれない、歩けない。保健所の方に「障害が・・」と言われたが、「1歳なのだから、まだ障害なんてわからない」と突っぱねたりもした。2歳の頃に目の病気で手術をした。その頃、「ママ」とは言えなかった。しかし、手術後、面会に行ったときに初めて「ママ」と言って泣いてくれた。それがきっかけで、「ママ」と言えるようになった。
他の子より歩くことも、しゃべることも遅いから、これが後遺症なのかな、と息子が3歳のころから受け入れ始めた。他の子にできて当たり前のことが、わが子はできるかわからない。けれど、できたことの喜びは普通の子供を育てるより、何倍もうれしい気持ちになれるんだ。そういう気持ちにさせてくれる子なんだと障害を受け入れられるようになった。小学4年生の時に転校したが、環境や先生、お友達に恵まれた。「お宅のお子さんと接するようになって、うちの子が優しくなった」と言ってもらえて、役に立っていると実感し、世の中捨てたもんじゃないと思った。
チャレンジドミュージカルに出会ったきっかけは、息子が小学2年生の時だった。障害のある子たちが舞台に上がるということを想像もしていなかったが、同じ学級のお兄さんが出ていて、何も理解できていない息子に「ちょっとやってみる?舞台に上がってみる?」と聞いたら、「うん」と言った。そこにいる人たちはみんな障害を持っているお子さんを持つ親で、その方たちに「お母さんはお母さんで楽しんでいいよ」と言われ、こういう場があったことに驚いたし、今は心から感謝している。
現在は、NPO法人で、いちかわ市文化ネットワークの事務局としてその活動を続けていくための仕事をしている。この場をなくしたくないという思いで勤めているが、たくさんの楽しみや笑顔を見れるのは、息子のおかげだと感謝している。息子は、19歳になったが、能力で言えば7歳程度。二桁の足し算ができない。漢字もバスが好きだから、バス停の名前で形から覚えていく。そんな息子はいつも笑っている。私が怒っても、「なんでお母さんは笑ってないの?」という。私が笑っている顔が好きみたいだ。現在は私はアイドル活動もしている。いつも一番前で応援してくれる息子は、出かける時も「今日はお母さんアイドル?」と言って見送ってくれる。障害を背負ってしまったが、私の子供として当たり前に育てている。大変だねと言われるが、大変ではない。ただ、他の人より不安や心配は多いが、全く苦ではない。普通に生活をしてながら過ごしている人間で、みんなと一緒です。