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VICアカデミー 「ラグビーと仕事から学んだこと」
2023年 03月 08日
VICアカデミーとは、弊社理念にある「学習と成長」の実践の1つとして開催しているVIC社員及び関係者のための
勉強会です。
「ラグビーと仕事から学んだこと」
講演者:東京ガスリビングアドバンス株式会社 代表取締役社長 吉村恒氏
吉村恒(よしむら こう)
最終学歴
1990年3月 早稲田大学 教育学部 卒業
略 歴
1990年4月 東京ガス株式会社 入社
2009年4月 同 東支社 東部営業計画部長
2012年4月 同 リビング企画部 リビングマーケティングGM
2015年4月 同 千葉ガス株式会社 出向 常務取締役
2016年5月 同 佐倉支社長
2017年4月 同 ライフバル推進部長
2019年4月 同 人事部長
2022年4月 同 東京ガスリビングアドバンス株式会社 出向 代表取締役社長
現在に至る
■ラグビーとの出会い
高校1年生の終わりに親の転勤により東京の高校へ転校。その転校先の体育授業で初めてラグビーを体験。1980年代は、
新日鉄釜石V7やスクールウォーズの影響もありラグビーがブームで面白そうだと関心が高まっていた時に、高校まで陸上競技をやっていた私は他の生徒より少しだけ足が速かったため楽しく、より興味を持つことになり、いつしか大学に入ったらラグビーをやりたい、と思うようになっていた。
4月の大学入学式後に「体育会ラグビー部へ入りたいのだが、どうしたらいいですか?」と学校に尋ねたら、「入部時期は
3月、すでに練習やってるよ」と言われた。早稲田大学ラグビー部では選手を早く戦力化するために、入学前から
トレーニングすることが通例だったが、私は知らずにいた。時すでに遅し、まずいと思い、恐る恐るその場からラグビー部へ入部希望の電話をした。恐らく今だったら「もう受付は終わった。未経験者はお断り」と言われるところだが、当時の
ラグビー部のマネージャーの方は「明日からきてね」と言っていただいた。本当に運が良かったと思う。
■9軍から1軍へ
大学2年時に、当時の監督がこれまでと同じやり方をしていては優勝できないと方針を変えた。概要は、ラグビーが多少
下手でも、足が速い、タックルしても倒れないなど、いづれかの身体能力に優れている若手の1-2年生を登用するというものだ。
私は1年生の頃は9軍にいて、練習ゲームの経験もなく監督の目にも留まることがなかったが、2年夏合宿に大きな転機が訪れた。3週間近く合宿をしていると故障者が続々と出てくるが、私は幸いにも怪我しなかったので、自然と6軍まで上がっていった。6軍に入ると練習ゲームをさせてもらえるようになり、そこで自分の出来ることを懸命に行った。
併せて4年生が就職活動で途中抜けたこともあり4軍まで上がり監督に見てもらえる環境になった。ある時、部内練習時に、誰にタックルされても倒れない注目選手を私がたまたまタックルで倒したところ監督の目に留まり、その翌日に1軍に抜擢された。大学からラグビーを始めた私が、いきなり9軍から1軍へ上がることに戸惑いもあったが、懸命にその後も過ごした。この夏合宿が私の転機となったことは間違いない。
■雪の早明戦
夏合宿を終え、就職活動がひと段落した4年生が戻ってくると、私は2軍になったが、そこでいくつかの準公式戦を経験させてもらうことができた。秋が深まる頃には、レギュラーが怪我をした時の交代役としてユニフォームを着てベンチで待機する控え選手に選ばれた。当時のラグビーは、余程の大きな故障が発生しない限り、先発で出た選手が最後まで試合に出るというものだったので、関東大学対抗戦の優勝を決める明治大学戦でも、自分が出場する可能性は低いだろうと思っていた。
しかし、終盤になって一人の選手が脳震盪を起こし、初めて出場することになった。ゲームは1点差の接戦、しかも終盤とあって5万人超を集めた国立競技場は最高潮の状況。初めての出場かつそのような状況であったが緊張する余裕もないまま
グラウンドに立った。僅か数分の出場だったが、ゴール間際で相手の選手を倒すことができ、その後ゲーム終了、10対9で勝つことができた。この試合が大学ラグビー史で伝説となった雪の早明戦である。もしタックルを外していたら、相手の
トライとなり逆転負けの状況だった。そうなったら、恐らく二度とレギュラーにはなれず、結果として今の私はここにいないと思うほど、この試合も私にとって大きな転機だった。3年生になってからは、春の練習ゲームや夏のオーストラリア
遠征などで一定の結果を出すことができ、レギュラーとして定着できた。
■ラグビーから学んだこと
早稲田大学ラグビー部員数は160名で、公式戦でユニフォームを着られるのは当時21名のみだった。つまり残りの約140名の部員はユニフォームを着られない。その切磋琢磨してきた仲間が、早明戦など大切なゲームの前に模造紙に寄せ書きを
書いてくれる。例えば、「お前のプレイを全て見てるぞ」「俺の分まで頑張ってくれ、信じてる」など。ロッカールームに張ってあるそれを見ると涙があふれてくる。出られないみんなのために自分の責任を果たしたい、果たせたならば国立競技場で倒れてもいい、という気持ちになる。
高校生までチームワークとは助け合うことと認識していたが、先ずは自分の役割を果たすことだと学んだ。例えば、体格のよい選手がボールをもって走ってきたら、こわくて逃げたくなるのが、それでは自分の責任を果たすことができない。周りをサポートする前に先ず自分の役割を果たす、その上で周囲に貢献する、その順番を学んだ。
また、早稲田には試合に出られない4年生は投げやりにならず、下級生のレギュラークラスの練習台になったり、来年のために後輩を指導をするという風土がある。これもチームワークの一つだと学んだ。結果、下級生の中では、レギュラー選手よりもそのような上級生を尊敬するケースが散見された。
なお、早稲田大学ラグビー部には、例えば自身の結婚式や葬式で最終学年で大学日本一になった代でしか歌えない第二部歌がある。幸いにも、素晴らしい指導者・同級生・後輩に恵まれ、私は4年生で優勝、その瞬間をグラウンドで迎えることができた。
東京ガスに入社後もラグビーを続けることができたことは、良い経験となった。仕事との両立。当時は火、木、土、日が
練習日で、平日は夜19時30分から始めて帰宅は深夜、土日も練習だったので休みなしという生活を30歳頃までした。
その後は50歳頃までマネージャーから部長までやらせてもらった。その中で、仕事だけではない時間の過ごし方(ワークライフバランス)や、仕事では得られない社内外の人脈、多様な背景でプレーする仲間の受容、チームマネジメントの難しさ、そしてレフェリーや対戦相手など色々な人たちの関わりがあってゲームが成り立っているとことなど、学生時代とは異なる学びを得た。
■東京ガスの挑戦
ガス事業の始まりはガス灯(明かり)だ。1872年に横浜馬車道通りに日本で初めて街灯を設置、1885年10月1日に東京府瓦斯局の民営化により東京瓦斯会社が創立され、渋沢栄一氏が初代社長を25年務めた。1900年初頭まで主要事業はガス灯(光源)だったが、電灯の時代になり、東京電灯(東京電力前身)との競争が始まった。当初はまだ電灯の品質が低かったため、当社は新ガス灯の開発や料金の値下げにより一旦は防いだが、電灯の品質向上が進み、電気料金値下げで徐々に
劣勢になり、その戦いの最中に熱源(お湯や調理)への切り替えを準備し事業転換を図った。
関東大震災では当社も甚大な被害を受けたが、二次災害が少なかったためガスの信用度が上がり熱源を中心に復興に貢献し、ガス需要拡大の基盤となった。原料は、石炭→重油→石油→天然ガスと転換していった。特に、今に繋がる天然ガス導入は世界初であり、お客様の家にある全てのガス機器を熱量変更する作業に約20年かける大事業だった。1980年頃から熱と電気の分散型コージェネレーションを導入し旧国立競技場や大型施設・工場へと次々に導入した。2009年には世界で初めて燃料電池(エネファーム)を発売。その後エネルギー全面自由化がスタートし、当社も電力小売り参入をして今では300万件超の契約を得た。脱炭素・エネルギー自由化・デジタル化・多様化..東ガスの挑戦はこれからも続く。
■仕事から学んだこと
大学時代ラグビーしかやってこなかった私が、現場総務からスタートできたことは幸運だった。総務はラグビーで言えば
マネージャー的な役割、そこでサポートの大切さや組織がどう動くかを学んだ。その後、当社チャネルへの営業支援・本社での政策運営に担当として長く従事した。様々な部署や立場を経験したことは、マーケティング・会社経営の基本を学ぶ機会になった。
その後、支社部長として70名程をまとめる立場になり、本格的なマネジメントを初めて経験し、学んびを得た。例えば、自分の考えを先に示す、ただしそれだけでは人は動かない、個々の対話を大切にし、共に行動する、その上で評価する、責任をとることを学んだ。子会社出向・常務では200名程の会社を再編する経験から、組織・人の感情を変えるにはビジョンを示す、全員と面談し繰り返す、成果を共有する、再編後もフォローすることの大切さを学んだ。
人事部長の3年間は、人のモチベーションをあげるための仕組み(制度)と仕掛け(運用)について学んだ。総じて、仕事をしながら、様々な経験や人脈形成させてもらえたことに感謝している。
■使命感
会社での地震時のエピソードを2つ紹介する。東日本大震災の時に、震源に比較的近い日立市エリアのガスを一旦遮断せざるを得なくなった。復旧は困難を極め、お客様からは「早く復旧してほしい」と言われていた。そのような中、作業員が仕事を終え、寒いので車中で報告書を書いていたら、ある女の子が車の窓をコンコンと叩き、「いつも遅くまで有り難う」の言葉とともに缶コーヒーを2本渡してくれた、と聞いた。
また、大阪北部の地震では全国のガス会社が復旧応援のために集結。当社からも、様々な機材を載せた100台以上の車が
高速道路を大挙して西に向かう姿をみた方々が、SNS等にあげ「東ガスが助けにきてくれた」とのコメントを見た。
これらのことを念頭に、インフラを預かる会社の一人として、使命感と責任感を強く抱き、東ガス
グループで働いていきたい。また、現職を通じて、世の中に少しでも役立つ存在になり、結果として自分自身を高めていきたいと思う。